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活動事例

活動実績
劇団マネジメント トリコ・A
case#002
 
トリコ・Aイメージ 京都を中心に活動する劇団トリコ・Aのアーツマネジメントを担当。
効果的で計画的な劇団運営のサジェスションや、各公演の広告戦略、劇団内部の意識改革などに取り組む。
 

トリコ・Aは魚船プロデュースを母体として2002年4月に旗揚げした劇団である。
活動拠点は京都市内にあり、主に山口茜の作・演出で上演劇公演をおこなう劇団員7名の小劇場系の劇団である。
縁あって2003年9月より劇団の運営マネジメントすることになった
(契約を交わしたのは9月であったが、実際には夏頃より作業は開始していた)

1.状況
 トリコ・Aの劇団運営は、小劇場系劇団の多くがそうであるように専任の制作者が不在であった。旗揚げして1年半、代表の山口茜以外の6名の劇団員は舞台経験も浅く、全員役者をやりたい20代前半の若者である。よって劇団員が制作作業を分担して行っている。2003年は2月の番外公演を皮切りに6月、9月、12月と4本の公演を計画していた。

 劇団の観客動員数をみると2002年11月「にんげん絨毯」観客動員数189人、2003年2月トリコA番外公演:食紅二号「逆鱗」観客動員数 90人、2003年5月「北極二号の恋」観客動員数268人である。1公演の予算は50万?60万円ほど。チケット料金は1000円。各公演の収支は赤字であるので、劇団員の団費積み立てでの補填を行っていた。

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2.マネジメント
 代表の山口茜と今後、どのように劇団の活動を行っていくか話し合いを何度もおこなった。トリコ・Aは旗揚げからまだ日が浅いにもかかわらず、劇作・演出の山口茜の存在で関西演劇界では注目を集め始めていた。この劇団のネックは「制作力」と「役者のレベル」であった。

 トリコ・Aの2003年の公演計画は制作者不在の劇団に起こりがちな「芸術的欲求からの行動」中心に公演計画を立てていた。公演と公演の間が中3ヶ月というこの過密スケジュールの中で出来る限り効果的な制作作業を行う方法を模索した。

 小劇場演劇の制作者を支援するサイトfringeのトップページに書かれているように、「芝居」を「公演」にするのは「制作者」である。トリコ・Aには専任制作が不在ではあるがとにかく予定は決まっている。今、出来ることをやっていこうと考えた。


3.9月公演「木辻嘘801」
 公演へ向けての具体的な指示は;
  • 制作担当の役者の仕事の分担を明確にすること。
  • 制作業務の進行はメールでの連絡・確認作業を徹底しておこない、自分の作業以外の進行も必ず把握するように。
  • 常にチケット販売数を把握するように。
 この3点である。制作作業を分担しているため、必ず相互に連絡をおこない、無駄な2度手間を避け、作業を自己完結させないことが必要であった。

 この「木辻嘘801」公演は京都芸術センターセレクションに選ばれたことで、広報宣伝の範囲も従来より飛躍的に拡大でき、また京都芸術センター顧客が公演に足を運んだことによって観客動員数を402人と大きく伸ばした。制作的にはまだまだ十分とはいえなかったがそれでも前回公演より動員数1.5倍増は大きな成果である。


4.劇団の行く末について
 昨今の劇団は「誰か一緒に芝居しませんか?」と役者を募集することが多いようだ。トリコ・Aも前身の魚船プロデュースから劇団体制になるときに同じような経緯をたどった。しかし、そのように集められた人材は「劇団に入れば役者として舞台に立てる」という目的がメインであるため、その他の考えの統一がとりにくいのではなかろうか?

 トリコ・Aが特殊なケースかもしれないが、この劇団は2003年12月公演をもって「劇団員」を手放すことになった。

 このことについては山口茜に語ってもらおう。

「トリコ・A解散」

 ちょうど「木辻嘘801」を終えた時、私は集団を維持していく事にかなり疲弊していました。こう書くと、「木辻嘘801」に問題があったように思われそうですが、公演自体は今までで一番やりがいのある、すばらしい結果に終わったのです。ところが集団をよりよい状態で維持する事と、良い公演を打つ事とは必ずしも比例しないのだ、という事に気がついたのでした。
 私にとって集団の一番良いあり方とは、個人が意思を持って集団に参加する事、一人でもつまらないと思う人が居ない事、そして、私(劇作・演出・代表)が神の様な存在にならないこと、でした。そしてこれらは互いに相反するもの、小劇場内ヒエラルキーを否定した私の考え方では、実現不可能な事だという思いに至りました。

  もちろん世の中には、全員が同じ位置に立ち、良い関係を保ちながら集団を作り上げている現場もあるのでしょう。けれどもトリコ・Aに関しては、私が他の人達よりも年も経験も少し上だった事なども災いして、どうしても同じ位置に立つことができなかったのでした。そして何よりも、同じ方向を目指しているのかどうかという点が、曖昧だったのです。ヒエラルキーにしてしまえば、方向性は代表が打ち出せば終わる話です。私はどうしても、それが嫌でした。別に社会的なヒューマニストでいたい訳ではありません。ただこの小さな京都小劇場の世界で、小さな権威に基づいた小さな世界を創りたくなかっただけです。

 解散して思ったことは、私達はやはり、演劇に対して一人一人が別の考え方を持つ人間だったなあという事でした。ある人はもっと俳優として色んな演出家と芝居がしたい、ある人は自分の信頼する仲間と集団を作りたい。ある人は劇作がしたいとずっと思っていたし、ある人は演劇をやめました。それら各自の(もしかすると根底に潜んでいた)意思を、トリコという集団が邪魔していたといっても過言ではありません。集団というのは居心地の良いものです。しかしその心地よさを維持することは、ともすれば自分の現実と理想の両方を殺しかねないのです。もちろんこれは、解散すると言った代表である私のエゴであるという意見が多数なのですが。

 トリコの元メンバーは皆本当に素敵な人たちだったし、一緒に芝居を創るのは楽しかった。この集団の居心地の良さは最高でした。今日本にある数々の小劇団もやはり、大なり小なりその集団に誇りを持っていたり楽しみを見出していたり、目標を掲げていたりするのでしょう。そういうのが解散した今でも羨ましく思ったりします。ただ、いざ一人になって思う事は、いつでも戦う相手は自分であるという事です。集団は時に大きな幻想となって、その集団を形成する個人個人の尻拭いをしてしまいます。けれども問題は、その幻想に実態が無いということです。尻は拭われたように見えているだけで、実は汚れたままで、本当に拭えるのはその本人しか居ない、という事だと思うのです。

 たくさんの人に解散を反対されました。もしかしたら「しまった、解散しなけりゃ良かった」と後悔する日が来るかもしれません。けれども今分かる事は、自分ひとりでも精一杯という程、演劇はまだまだ未知の世界で、学ばねばならない事が多いという事。そして、周りがどうなろうと、私は演劇で食べていく、という事だけです。ずいぶんと偉そうな事を書き連ねましたが、これからも恐らくたくさんの人に支えて頂くと思います。だから自分を磨くというポイントだけは、自分で遣り遂げるべきだと思っています。

(トリコ・Aプロデュース 山口 茜)


5.「トリコ・Aプロデュース」
 トリコ・Aは2004年1月より劇団員を抱えない団体として新たに歩み始めた。名称もトリコ・Aプロデュースと改めた。ネットワークユニットDuoは2004年3月末までマネジメントを担当する。

追記:山口茜は2003年12月に第10回OMS戯曲賞大賞を受賞した。

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